日々雑感 みぞぐち幸治のひとり言

2011年12月20日 (火) 22:37

空虚な言葉「市民力」

こんばんは。

最近、知事が「市民力」という言葉を使います。
その影響からか熊本県が作る書物にも「市民力」という言葉が出てきました。

結論から言うと、わざわざ「市民力」という何か訳の分からない言葉を使わなくても、文脈から違った言葉でも十分に想いは伝わると思っています。

皆さん「熊本の市民力」という言葉を聞いてどんなイメージを持ちますか?

「熊本の市民の力」と解釈すると、熊本市民の方々の力、もしくは熊本県内の市の方々の力と考えるのが普通ですよね。

市民力とネットで検索すると、長崎市市民協働推進室の市民市民力ネットというページが出てきます。

その中に市民力とは「本市では、市民力を「市民が自主的・自発的に地域課題の克服に取り組もうとする力」と定義しています。

言い換えれば、「地域にある課題の解決を他人任せにせずに、できることは自分でやろう!」という意志を持った市民の力を指します。 地域にある課題を解決するために、長崎の市民力を発揮していきましょう。とあります。

長崎市民の力を市民力と表現することに何の違和感もありません。

しかしながら、熊本県が市民力という言葉をあえて使うところに違和感を覚えます。

私の地元のように長年、川辺川ダム問題(治水事業、利水事業等)に翻弄されてきた地域では、時に、市民団体と名乗ったものが善で、行政及び、過去からの伝承継承を唱えたものが市民団体に対峙する悪とのイメージが出来上がっているのも事実です。

また、その他の県政の重要課題などでも特定の思想やイデオロギーを持った方々がうまい具合に、利用し、時の政権や行政を攻撃する時に利用しながら活動してきた団体もいわゆる自称、市民団体と呼ばれる方々でした。

私から言わせれば、市民力と使う方々は県民のごく一部で、また特異な活動をする方々です。(もちろん、純粋に市民団体と名乗って活動する方々もいます)

そういった意味で市民力という言葉が個性あふれる資源だと言えばそうかもしれませんが、多くの市民に共感を得る言葉ではありません。

現在でも地球市民という言葉を時々使う民主党議員がいます。

理想として国境を事実上なくし、世界の皆が仲良くしていこうという理想は分かります。

しかしながら、国境をなくし、宗教の壁を越え、それぞれの国益を無視して世界の皆が仲良くすることなどありえません。

そんなこと近隣諸国を見ても明らかです。

もちろん、地球上の歴史を見ても明らかです。

また、近いところの熊本県内でも常に地域の誇りと、成り立ちで大小関係なく摩擦が起きているのも事実です。

いい加減に目を覚まし、空虚な言葉を使うことは止めにしたいものです。

「市民力」という言葉、どうでもいいけど譲れない私の想いです。